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「教え合い」から『学び合い』へ
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「教え合い」から『学び合い』へ

COTECHI
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こんにちは、COTECHIです。

グループ学習は、『学び合う』学びにおい、て大きな位置を占めます。

でも、どんなことに気を付けて、話し合いを進めていけばいいのでしょうか。

P-MASTER
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少人数で、教師の介在なしで、互いの考えを出し合って学ぶ場は、教師がコーディネートする全体学習以上に、子供の学び合いの意味が大きいですね。

だから、『学び合い』の学び方については、その意義を十分に子供たちに理解させていく必要がありますね。

グループ学習を『学び合い』へ高める

教師から「グループで」という指示が出るやいなや、さっとグループの形になり、間髪いれずに聴き合いを始めます。

4人の頭がくっつくように近づき、その表情は真剣だけれどやわらかさが感じられるのが理想です。

声量は抑えられていて、すべてのグループで対話が行われているのだけれど、不思議なほどざわざわ感がなく、温かい雰囲気が出る『学び合い』の時間にしたいです。

しかも、語っているのは一部の子供ではなく、どの子供にも語る場が存在しているように、それは、グループの輪から外れている子供がいないということを示します。

こういう状態になればもうしめたものです。適切な課題さえ提示すれば、そこから子供たちが良質の学びを生み出してくれるでしょう。

学習を進めていて、こういう手ごたえが感じられることほどうれしいことはありません。

『学び合い』は「教え合い」だと思い込む考え違い

 『学び合い』は、子供がかかわり合うことを目指しますが、それは、関わりが生まれればそれだけでよいということではありません。

大切なのは、そのかかわりが『学び合い』になっているかどうかなのだと思うのです。

そこを見極めないと、グループ学習が雑談の場になりかねません。

ですから、ここまでの姿が生まれると、私の関心は、かかわりの内容に向くことになります。

 グループでの子供たちの様子を見ていて、やはりこうなってしまうのだ、でもここからどう脱却するかが『学び合い』深まりの鍵になる、そういう意味では、これはだれもが通る関所のようなものなのだと感じたことがあります。

それは、子供たちの関わりが、『学び合い』ではなく「教え合い」になっていたことです。

『学び合い』は分からないことを学ぼうとする行為が軸

 「教え合い」と『学び合い』の違いについては、『「学び合う学び」が生まれるとき』(世織書房)によると、要するに、よく分かっている子供がそうでない子供に教えるのが「教え合い」、逆に、分からない子供が援助を求めてそれに他の子供が応じるのが『学び合い』です。

「教え合い」は教えることが軸になりますが、『学び合い』は、分からないことを互いに学ぼうとする行為が軸になります。

「学び合う学び」では、「教え合い」ではなく、『学び合い』が好ましいと考えるのです。

互いにそうしてよかったと思える事実が「互恵的関係」へ

 これまで参観した学級の子供たちのかかわりは実に積極的でした。

ぼんやりしている子供、学ぶことを放棄している子供、だれともかかわらずぽつんとしている子供はは見られませんでした。

けれども、すでに問題が解けた子供が、分からないで困っている子供に教える状態に陥っていました。

それはそれで、自分は分かったのだから友だちである○○さんも△△くんも分かるようにしなければという意欲の表れで、その意欲を否定してはいけませんが、しかし、これは「教え合い」です。これでは、学びにおいて大切な「互恵的関係」は生まれません。

 かかわり合ってよかったと思う時には、互いにそうしてよかったと思える事実が生まれます。

それがなく分かっている子供から分からない子供に一方向に「教える」という行為では双方に学びが生まれないのです。

ですからそれでよしとするわけにはいかないのです。

つまり、課題は、「教え合いから学び合いへ」というグループの学びの実の転換なのです。

『学び合い』を生み出す鍵は「わからなさ」を見つめる目

学校においては、分かることは値打ちのあること、分からないことは恥ずべきことという見方が強烈に存在します。

ですから、なかなか理解できない子供は、いつも劣等感めいたものを抱いています。

そして、その恥ずべき状態を隠そうとします。

中学生になればそれは顕著になります。そうして、その「わからなさ」をますます増幅させているというのが実態なのではないでしょうか。

しかし、「わからない」ということは恥ずべきことでしょうか。

「早く分かる」ということは、それほど値打ちのあることなのでしょうか。

何の苦労もしないですっと分かった場合と、苦労してやっと理解できた場合と比べて、結果としては同じことが分かったのですから両者に違いはありません。

そう考えると、早く分かったほうがよいと考えることになります。

「学び」は、分からないことに挑むから楽しい

 けれども、どちらの子供に「学び」が生まれているかと考えると、その見方は一変します。

苦労して分かった子供は一つの問題を解くためにさまざまに思考しています。

その過程に、「なぜだろう、ひょっとしたらこうするのでは、そうだ、そうなんだ」といった探りや気づきをしています。その一つひとつが実に貴重なのです。

それがその子供の「学び」になります。そう考えると、すっと分かった子供より「学ぶ」ということに関しては深いのではないでしょうか。

「学び」は、分からないことに挑むから楽しいのです。

意味があるのです。

分からなさを克服したいという意欲に燃えて挑戦したとき、脳が活発に思考し考える力が伸びるからです。

「分からないということ」は、「そこに宝物がある」ということ

 どんな人でも、長い人生において分からなくなること、大変な困難に突き当たることがあります。

実はそういうときこそ、自分の中に潜んでいた何かが姿を現し、思いがけない発想が生まれたり、その困難に挑む力が湧いてきたりします。

つまり「分からないこと・困難なこと」は、「学び」を生み出すのだと思えるのです。

そう考えると、「分からない」ということは、恥ずべきことではなく、むしろ、歓迎すべきことなのだと思います。

 教師は、子供たちに「分からないということは、そこに宝物があるということだ」と、常に語りかけることが大切です。

そして、子供の「分からなさ」を決して放置せず、その「分からなさ」から、見事な学びを生み出す授業を実行することです。

その事実こそが、「そこに確かに宝物がある」という確信を子供にもたらします。

そして、そのことが、その学級で

「分からなさを見つめる目」の共有 、そして 「互恵的な関係」 へ

この「分からなさを見つめる目」が共有されれば、今まで劣等感を抱いて縮こまっていた子供、投げやりになっていた子供の目が輝いてくるようになります。

それは、一人も見捨てない、すべての子供の学びを保障することを目指す『学び合い』にとって欠くべからざることです。

しかし、それだけではまだ「互恵的な関係」は生まれていません。

分からなかった子供が分かるようになっていく過程で、分かっていると思っていた子供にも学びが生まれるようにならないと、そこに「互恵的な関係」は存在せず、ひいては、すべての子供の学びの保障にはならないということになります。

だから、「教え合いから学び合いへ」という方向が大切なのです。

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