学校の命運は教師の礼儀礼節で決まる!
こんにちは、P-MASTER です。
こんな見出しを付けられると、ちょっと不思議な気がしますが、これは、当たり前なことです。
学校だけでなく、会社などの企業や、仲間のサークル活動、友だち関係でもそうです。
夫婦間であってもそうでしょう。
目次
私たち教師が、子供たちに魅せるべき大人の姿は、まずは社会の正しい礼節を教えるべく子供たちの前で見本を見せ(魅せ)続けること!
私の社会人としての出発は、銀行員としてでした。
入社後、本店で、一か月の宿泊研修を終えてから、各支店に配属されたのですが、それから3ヶ月間は、つまり、8月に入るまで、毎朝、開店後二時間、支店の入口の自動ドアの外側に立ち、お客様に「おはようございます。いらっしゃいませ、本日もありがとうございます。」と深々と3秒頭を深く(45度)垂れるということのみを仕事とされ、繰り返す毎日でした。
それが社会人としてのスタートだったことを強く印象として残っています。
初めは、「なんで?」という思いが強くありましたが、3日ほどすると、その意味がだんだん分かってきました。(最後に記します)
教師の仕事に就いてから、現在も、児童や生徒の前に立つときは、
○子供よりも深く頭を垂れ、子供より長く3秒
○ていねいなあいさつの仕方や心地よさを魅せる(見せる、そして、子供に敬意を持つ自分を保つため。)
です。
このことを、毎日、毎時間、授業の始め、終わりのあいさつで、徹底して行うことを自分自身に言い聞かせて、繰り返してきました。
誰にでもできる簡単なことを、誰も真似できないくらい徹底的にやり続ける気構えです。
ですから、子供たちが礼をして、きちんとあいさつをしているかどうかの、子供の様子を確認できません。
自分の方が「長く・深く頭を垂れている」のですから、私からは、子供の様子を見ることはできませんので、確認はできません。
確認する必要もありません、私の姿を見せることが目的だからです。
でも、子供たちもきちんとした礼をしていると信じています。
毎日毎時間、繰り返していると、自分より長く頭を垂れている子供たちが増えてきますから、そのうち分かります。
今でも、いろいろな学級で授業をさせていただく、見せていただく機会があれば、知らず知らずそのようにしています。
頭を垂れて、5秒数えています。癖(習慣)になっているのです。
また、必ず、「起立」、「礼」、「ありがとうございました」等の号令をかけてくれる当番や係の子供の指導を大切に行い、私自身が、一番礼儀正しく、頼れる子供にお願いしていました。
私にとっては、みんなで一緒に簡単に行うことができ、心を合わせる「最も大切な儀式・習慣」、その時間こそが「授業の時間」そのものだからです。
「子供たちを大切に、授業を大切にしていこう」の確認ですし、5秒間そのことを呪文のように心の中でつぶやくのです。
しかも、一日に、何十回も先生の気持ちを見せる(魅せる)、教師の姿を魅せる、理解させることができるからです。しかも無言で。
これを一年間、毎日毎時間繰り返すのですから、学級が荒れるはずがありません。
礼儀作法を身に付けると、子供自身が安心して生活でき、全員授業に参加することも可能になる「幸せの鍵」
人々の日常生活の中での「立ち居振る舞いなどの礼儀」が、長い人類の歴史の中で、日々の生活の中で、様式化されてきた礼儀作法が、なぜ大切なのでしょうか。
私たち人間は、さまざまな考えをもっている多くの人々と共に生活をしています。
多くの人たちと一緒に生活している私たちにとって、最も必要なことは、「安心」ということではないのしょうか。
誰もが、心から安心して生活できる社会は、楽しく、幸せです。
社会は、法律やきまりを作って、そこから、人々の安心を獲得しようとしています。
だから、礼儀作法は、すべてが人と人の安心な関係を創り出す「心づかい」です。
礼儀作法がきちんと大切にされ、集団の中に位置づけられている仲間なら、学級や学校のきまりが簡単に崩れたりすることはありません。
そこから、人と人の中に、「安心」が生まれるのです。
つまり、礼儀作法とは、その集団のすべての人が安心して、楽しく生活できる「幸福の鍵」になるのです。
家庭の親御さんと学校の教師によって、見せられ、魅せられ、教えられて、子供の生活に根付くことができた礼儀、マナーが、学校だけでなく、家庭や地域でも実践されれば、学校の教育力は、周囲の人たちからの信頼を回復するようになるでしょう。
「学校の先生の教育力は大したものだ」と家庭や地域から認められ、「先生の言うことはちゃんと聞いてこい」と、親が言うようになれば、学校の教育効果は、驚くほど大きく向上します。
さらに、小学生の礼儀作法を、先生がきちんと教室で教えることで、人として生きていくための、基本的な礼儀作法を身につけた始めた子供たちは、子供たち自身の毎日の大切な「生活の場である学校」を、明るく楽しく、安心できるものにしていきます。
礼儀作法を根底においた教育は、つまるところ、「人間としての生き方」そのものの教育であり、「幸福の鍵」をどの子供にも配り、どの子供にも持たせ、その「幸福の鍵」を、どの家庭にも持って帰らせることになるのだと、私は、考えているのです。
「幸福の鍵」を持った子供たちが集まり、学び合う「学級」や「学校」は、必ずや「安定」し「安心」が生まれ、和やかな雰囲気に満たされることでしょう。
教室で、毎日、本当に、さまざまな出来事が生じ、「授業や教育以前」の問題の対処に追われ、本当に、心も身も疲れてしまっている教師が見られます。
「この学校には、教室から逃げ出す子がたくさんいるので、いつも職員室にいてください。」というような話を、進言しにみえる先生がいて、残念な気持ちになったことを覚えています。
しかし、これらの崩れや乱れの現象は、ほんの一つの結果の現れです。
そういう言葉に表れてしまうような残念な結果をもたらす原因は、何なのでしょうか。
どんな物事にも、必ず本質があります。
長い日本の歴史の中で、大切に継承されてきた伝統的な文化といえる「礼儀作法」への着目は、混迷状態にある「教育を再興する力強い良薬」になると私は、思っています。
いや、私は、このことしか方法はないとさえ思っています。
礼儀作法の習慣化の教育は、決して、難しいことではありません。
明るく、優しく、楽しい、秩序ある本来の子供らしさを取り戻す良薬になってくれることを私は願っています。
最後に・・・敬意を払える「間(ま)」
銀行に勤めて、あいさつを3か月間繰り返して、だんだん分かってきたことは、何でしょうか?
それは、「人と人との間(ま:距離)」です。人と人の距離感と言ってもいいのでしょうか。
現在は、新型コロナウイルス感染防止対策で、ソーシャルディスタンス(社会的間隔)という言葉が一般化してきましたが、「人と人との距離感」は、とても大切だと思います。
距離が離れ過ぎると、その関係性は無くなってしまうし、逆に距離が近寄り過ぎると、少し関係性が微妙な関係になってしまうように思います。
パーソナルスペースが人によって異なるように、「心理的なパーソナルスペース」も人によって様々だと思うから、その距離感を測ることは、結構難しかったりもします。
近過ぎず、遠過ぎず、相手に安心を持ってもらえて、人と人との互恵関係を保ち、敬意を見せ、心配りを感じあえる距離感を作り出し、保つことができるのが、それが「丁寧なあいさつ」の目的です。
それを「身をもって体験して、身につけろ」、と銀行の上司は、教えてくださったのです。
初めて社会に一歩踏み出したあの時、毎朝、3時間自動ドアの前に立って、来店していただいたお客様お一人お一人に、「おはようございます、本日もご来店、ご利用ありがとうございます。」と、あいさつをし続けた毎日。
ひと月、ふた月経つと、それまでは、全く見知らぬ人だった人たちが、「おはようございます。」「今日もありがとうね。」と、顔見知りの人になるのです。ぐうぅんと、身近な、お知り合いになり、親しくなれることを私は、学ばせていただいたのですね。社会へのよりよい一歩でした。
本当にありがとうございました。
まとめ
そもそも子供たちは、大人の姿を見て学び育っていくものです。そして、どういう生活の仕方が大人の正しい社会なのかを学び、身に付けていきます。
誰にも、すすんでしていく習慣を持つことが大切です。あいさつは、相手から返してもらうことを目的にするものではありませんから、あいさつをする習慣が身についた人は、相手のあいさつに対しては、大変寛容なものです。