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現実的に可能な方法として、『学び合い』しか道はない
こんにちは、COTECHI です!
「将来の変化を予測することが困難な時代を前に、子供たちには、現在と未来に向けて、自らの人生をどのように拓いていくかが求められている」・・・と文科省は言っていますが、難しいことですね。
そうなんだよねえ。一つの正解を求めてきた教育から、多様な答えを周りの人たちと協働して創り上げていく・・そんな学習の仕方を子供たちは、教室の中で学んでいかなければいけないんだよな。
だから、大切なことは、人間関係力育成の課題、もっと大きく捉えると、これからの未来の子供たちの学び方・創造性ある学び方と日本の教育改革に向けて、現実的に可能な方法として、みんなで協力して、みんなで主体的によりよい会を求めていく学習方法、そんな『学び合い』しか道はないと考えていますよ。
『学び合い』とは・・・
大きな学校課題としての「いじめ」問題
学校には、様々な課題がありますが、その中の大きな課題として「いじめ」の問題があるのではないでしょうか?
いじめの問題は、どの学校でも、どんな集団でも、誰にでも起こることです。
誰もが被害者にも、加害者にもなる可能性があります。
なぜ、いじめはなくならないのでしょうか?
いじめが起きるときの子供の心理
いじめは、自分と、または自分を含む周りの人と、「少し違う」ことで引き起こされることが多く見られます。
いじめる側の人たちは、その「少しの違い」が我慢できない状態になっていることが多いのです。
それは、「自分たちと少し違う人がいる」と感じるだけで、その人にとっては、何かしらの「不安」を生む、寛容になれない、そんな時代になってしまっているようにさえ感じます。
学校におけるいじめの世界では、子供たちは、「多様性の獲得」とそれに伴う「混乱」を恐れているように見えます。
この混乱を避けるために、子供たちは、常に「私たちは、みんな一緒だよね」と、「確認し合って生きていかなければならない」のです。
そうやって、自己内のバランスを保とうとして、「バランスを崩す可能性のある要素」は、排除しなければならないのだという心理が知らず知らずのうちに、または、意図的に「いじめ」という行動に現れてきているのではないでしょうか。
学校とは何か?・・それを起点とした教育を再出発
さて、この「いじめ」問題が象徴的に現れる「学校という場所」について考えてみたいと思います。
学校とは・・・なんて、改めて考え直さなくても、すでに周知されていることではあるが、この学校という、ある種「閉ざされた空間」において、「いじめ」問題が発生、発覚して、大きな報道になることが多く見受けられます。
もちろん、学校でなくとも、他の集団で起こることもあるのだが、こと「いじめ」となると、学校で起こっているというように感じさせられてしまいます。
「学校とはなにか」─そもそも、それが問題だと思います。
人間関係力を育むことを土台とした『学び合い』
私たちが当たり前に受け入れている学校とは、そもそも何であろうか。
私は、これからの学校は、日々の学習や生活の中で、教職員と子供たちが、子供たち同士が信頼関係を築きながら、よりよき生き方を見つけ合う場所だと考えています。
教科や行事は、そのための材料やツールに過ぎません。
いずれ社会に出ていく子供たちにとって、学校とはそのための練習としてのミニ社会だと考えています。
社会に出て、多様な様々な人と協働しながら、ミッションを達成していくためには、やはり必要なことは、他者への気遣いでありマナーでしょう。
『学び合い』とは・・・
これからの学びには、単に、自分一人が「解けた!」では不充分ですね。
学びの最終目標は、誰かに教えて相手に分かってもらえることなんです。
自分で勉強する際の「分かった」は、インプット=暗記回路しか使いませんが、相手に分かってもらうには、「どうする?」に頭を使いますので、アウトプット思考が鍛えられるのです。
多くの人と力を合わせて、多様な考えの中から、より適切な会を求めていく作業を進めていくには、どうしてもコミュニケーション能力を鍛えていく必要があります。
その過程で アウトプット思考が鍛えられるのです。
コミュニケーションを図る資質・能力の育成を目指すこと
つまり、インプット(聞くこと、読むこと)とアウトプット(話すこと、書くこと)が往還する言語活動の充実を通して、主体的に考えを表現したり伝え合ったりするコミュニケーションを図る資質・能力の育成を目指すことができます。
また、相手に分かってもらおうと試行錯誤する中で、「分かった」と思っていた問題も、さらに理解を深めていくことができるのです。
解けた児童も誰かに分かってもらえて、「一人も見捨てない」のミッション完了なので、教室中を動き回って教える空間ができあがっていきます。
まだ解けない児童も、教えに来てくれる仲間の期待に応えて何とか分かろうとするので、集中していない児童が誰一人いない、『学び合い』の空間が形成されることを期待する。こうした取り組みは、おのずから主体的に学ぶ力を育てていくことになるのでしょうね。