「分からない」にこそ宝がある!
こんにちは、COTECHI です。
教室の子供たちを見ていると、とってもはりきって学習する子供とそうでない子供の開きを感じてしまって、いつも頑張る子供中心の授業になってしまう・・・ってことがありますよね。
すごく悩んでしまうのですが・・・。
学校においては、子供たちの心の中には、分かることは、価値があること、分からないことは「恥ずかしいこと」という見方が、強く存在しているようです。
ですから、なかなか理解に到達できない子供は、いつも劣等感のようなものを抱いているのではないかと思います。
そして、その「恥ずべき自分の分からない状態」を隠そうとします。
高学年になればなるほど、そうした姿は顕著になってきます。
そうして、その「分からなさ」をますます増幅させているというのが実態なのではないでしょうか。
それは、私たち教師や親が、子供たちにそういう感情や価値の感覚を持たせてしまっているのかもしれませんね。
しかし、本当は、私たちは、いろいろなこと、全てを知っている訳ではなく、そもそも、「分からない」ということは、恥ずかしいことなのでしょうか。
目次
「分からない」ことは「恥ずかしいこと」ではない!
私たちは、ある意味競争社会に身を置いていますが、子供たちの学習の中で、「早く分かる」ということは、それほど「価値のあること」なのでしょうか。
私は、何の苦労もしないで、「さっと分かった場合」と、たくさん苦労して「やっと理解できた場合」と比べて、結果としては、同じような答えが「分かった」ことになるのですから、両者に違いは、全くないと思います。
しかし、同じ分かったなら、早く分かったほうがよいと考えることもできるという意見もあるでしょう。
けれども、どちらの子供に「学び」が生まれているかということを考えてみると、その見方は、大きく一変します。
むしろ「学び」は「分からないことに挑戦する」からこそ尊い
苦労して、やっと分かった子供は、一つの問題を解くために、さまざまに思考していることになります。
そういう子供は、その過程に、「なぜだろう」、「もしかしたらこうするのでは」、「そうだ、こうすればできるんだ」といった、探りや気づき、トライやチャレンジしています。
そして、その一つひとつ疑問や気づき、思考や繰り返しなどが実に貴重なことではないかと思うのです。
それ自体が、その子供の「学び」になります。
そう考えると、ささっとた子供より、なかなか理解に至らなかった子供の方が、より「学ぶ」ということに関しては深いのではないでしょうか。
「学び」は、「分からないことに挑むからこそ」楽しいと思うのです。
そうだからこそ、意味があるのです。
分からなさを乗りこえたいという意気込みに燃えて挑戦したとき、より一層脳が活発に思考し、考える力が伸びるからだと考えるからです。
「分からない」ということは「そこには素晴らしい宝物がある!」ということ
どんな人でも、長い人の生涯において分からなくなること、大変な困難にぶつかることが、何度もがあります。
それは、子供だけに起こることではなく、全ての人に、繰り返し繰り返し、生きている間、絶え間なく突き当たる、日々の当り前なことです。
実はそういうときこそ、自分の中に潜在的にもっていた何かが姿を現し、思いがけない発想が生まれたり、その困難や壁に挑む、チャレンジ力が湧いてきたりします。
つまり「分からないこと・困難なこと」は、「学び」そのものを生み出す大切なことなのだと思うのです。
そう考えてみると、「分からない」ということは、全く「恥ずかしいこと」ではなく、むしろ、とっても歓迎すべきことなのだと思うのです。
教師は、子供たちに「分からないということは、そこにこそ、とっても素晴らしい宝物があるということだ!」と、常に語り、諭していくことが大切だと思います。
そして、子供の「分からないという思い」を、そのままに放置をすることを決してせず、その「分からなさ」から出発して、子供たちとともに「見事だと思える学びを生み出す」授業を実践することだと思うのです。
その事実、その実践こそが、「そこに確かに宝物がある!」「分からないことは宝物だ!」という確信を子供にもたらします。
「分からなさを見つめる目」の共有を学びの中心に!
この「分からなさを見つめる目」が学級の子供たちすべてに共有されれば、今まで、劣等感のようなものを抱いて、のびのびと学習に迎えなかった子供、あきらめてしまっていた子供の目が、今度は、輝いてくるようになります。
それは、「一人も分からない子供をつくらない」、「すべての子供のわかる学びを実現すること」を第一目標においた『学び合い』にとって、欠かせない魂となるということです。
しかし、それだけでは、まだ子供たちの学び合いに、「互恵的な関係」は、生まれてはきません。
分からなかった子供が分かるようになっていく過程で、分かっていると思っていた子供にも、またその子にとっての特有の学びが生まれるようにならないと、そこには、子供相互による「あたたかい互恵的な関係」は存在せず、そして、すべての子供の「確かな学びの実現」にはならないということにです。
こうした理由で、「教え合い」という学び方から『学び合い』へという、子供たちの学び方の転換が大切だと考えるのです。
将来にわたって、周りの人と力を出し合って、協力し、よりよい答えを見つけて、皆のよりよい幸せにつなげていこうとする人の生き方の素地を作っていかなければいけないんだ。
がんばります!