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マジョリティの人が当たり前だと思っている授業のやり方や慣習がマイノリティの子どもの生きづらさになっている!
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COTECHI
COTECHI
学校にはさまざまなルールや決まりごとがあけれど、中には「なぜそれをやる必要があるのか」が、明確でないまま習慣化されているものも多くありませんか?

P-MASTER
P-MASTER
そうだね・・・今までの学校文化で、当たり前になっていると思われることを見直していかないと、生きづらさを持った子どもたちには、学校が楽しい場所ではなくなってしまいます・・・

全ての子どもが過ごしやすくなるよう、学校の文化や慣習を変えていく必要がある

この頃の学校では、マジョリティの人が当たり前だと思っている授業のやり方や慣習が、マイノリティの子どもの生きづらさになっていると感じさせられている。

そうした子どもが過ごしやすくなるよう、学校の文化や慣習を変えていく必要がある。

問題をもつ子ども、困り感を持っている子どもについての基本的な理解にあたっては、その問題の事実関係の把握や解決方法の策定にエネルギーを費やすことも大事だが、子どもは問題行動を通し周囲の状況に対して、「異議申し立て」をしている。

社会的に許されない行為や道徳的に間違った行為は教師として見過ごすことはできないが、今の彼には、選択肢がなかったそうせざるを心情には心を寄せ、理解に努めたい。

時間はかかっても、その姿勢がなければ、いつまでたってもその子どもは、心を開かず、生徒指導は始まらない。

臨床心理学者の河合隼雄は、「思春期の子どもは自分の心の中に起こっていることを言葉で表現できない。したがって、自分の心の中の問題に見合うだけの外的な事件を引き起こす。それは無意識のうちになされる一種のコミニュケーションのようなものである。そして、そのことをよく理解している大人がそばにいると、子どもは安らぎや心強さを感ずる」と言っている。

「心の声」を引き出す・・・問題を持つ子のプライドは高く、被害者意識も強い

勉強の面倒をみたい 問題をもつ子どもは一般にプライドが高く、集団や異性の前で恥をかかされることや、特別な扱いを極端に嫌う。

そのプライドが邪魔をし、授業中は、わかったフリをしなければならない場面もあり、学習に対する劣等感も大きなものがある。

賢い子どもほど、立場を考えて従っているフリをしている事は多く、教師は時にそれを錯覚し、どの子どもに対してもような態度を強要することから問題が生じてしまうことがあるので注意したい。

教師が子どもと話をする時には、そのことを忘れてはならない。

子どもと対話をするとき、特に悩みや困ったことの相談や不平不満を聞き取る時には、単なる言葉と言葉のやり取りではなく、その子どもの本当の気持ち、「心の声」を引き出し、まずそれを受け入れ、その気持ちとの真摯な対話に心掛けたい。

周囲の子どもには、「心の痛み」を醸成し、共に成長させたい

問題をもつ子についての解決を子どもたちだけに頼ってはいけないが、仲間のために自分のできることは何かを考え行動に移すことは、集団づくりには欠かせない。

仲間の問題行動を点検し追求するだけでは、自分は常に傍観者の立場にあり、自分は何も心が痛まない。

その子どもの「心や動機」に目をやり、それを理解しようとしなければ問題の本質は見えず、真の解決には至らない。

他人への助言も、相手の心の痛みを共感的に理解し、自分の心の痛みとともに相手の側に立って行わせたい。

つまり“その子になって”問題を考えさせるのである。

そのことは自分の心の成長にも役立ち、相手も「みんなのおかげで」という気持ちをもつことにつながるのである。

その子どもの「心や動機」に目をやり、それを理解しようとしなければ問題の本質は見えず、真の解決には至らない。

彼の真実の気持ちはどこにあるのか、本当に欲しいものは何か、本当にわかってもらいたいことは何かにまず寄り添いたい。

これまで問題をもつ子どもは、よく学級での居場所がない言われてきた。

しかしもう少し子どもの心情に寄り添ってみると、本音は、授業での居場所がないことの方が本当である。

どんな子でも“勉強ができるようになりたい”、“授業に参加したい”と切に願っている。

ところが彼らは、教師が意識するしないに関わらず、授業で競争的な一斉指導が進められていく中で、次第に授業についていけなくなり、勉強をあきらめ、心が傷つき、居場所を追われているのである。

個別学習は、その子たちにとっては決して本意ではない。

特に、主体性や自信の形成においては、自尊心のない者は、自分を信用することができないため、自分自身の能力にすら懐疑的になってしまい、何も為すことができない。

「自律の心」をいかに培っているか

自尊心をもっている者は、自分自身を価値あるものとして認識し、意欲的に経験を積み重ね、満足感をもち、自己にも他者にも受容的な態度がとれることから、精神的な適応の基盤をなす。

しかし、子どもは、挫折からはこのような感情は生まれない。

その感情は、例えば学校の中では具体的には「今の自分、こういうことのできる自分が誇らしい」と思うと同時に、「友だちを誇りに思う」、「先生を誇りに思う」、「学級を誇りに思う」、「学年を誇りに思う」、「学校を誇りに思う」こんな感情ではないだろうか。

子どもが将来豊かで自立した社会生活を送れるかどうかは、「自律の心」をいかに培っているかが大きな問題となる。

人間にも、高い意欲をもち何事にも一生懸命取り組む優れたエンジンと、自分の意思や行動を適切な判断力をもって自分で制御できる優れたブレーキが必要である。

社会規範を育てる教育の目指すところは、誰かに言われてやるのではなく、誰も見ていなくとも、正しいことを“自分の心の命令”でいつでもできる力をつけていくことである。

「やらされている」のと「それがいいと思ってやっている」のでは大違い

「挨拶がよい」、「服装や髪型がよい」、「整列がよい」、「私語がない」、「掃除を一生懸命やる」、例えばこのようなことは、どの学校も目指していることであり、ある意味ではこれらは外からみただけでもすぐにわかるので、学校や子どもの善し悪しを判断するバロメータになっている。

しかし、一見同じように見えても、何か外的な力が働き「やらされている」のか、自分たちが「それがいい、そうすることが当たり前」と思ってやっているのかでは価値がまったく違う。

やらされているとすれば、環境が変わればすぐに元に戻ってしまい、本人の身には付かないし、それは教育ではない。

中には「それは理屈抜きのしつけだ」という教師もいる。

しかし、その論理が中学生になってからでは全く通用しないということは、ほとんどの教師が知っている。

力のない教師や傍観者的な教師ほど、まだそんなことを言っている。

「そうしている自分が誇らしい」と思えるようになるまで

子どもの道徳的な行為や望ましい行為は、一見同じように見えても、先生にやらされている場合はとても不自然な感じがあり、先生の力が及ばなくなればすぐにやらなくなってしまう。

本当に身に付いている場合は、とても自然であり行為に品格すらある。

そうなるためには「そうすることがよいことだ」という価値観を子どもが自分の中に確立するまで、教師のあきらめない指導が必要である。

そして、それができた子どもには、もう一歩進めて、「そうしている自分が好きだ」、「それが自然にできる自分が誇らしい」、「みんなができているそんな自分の学校が誇らしい」、という自信と誇りをぜひ植え付けてやりたい。

生徒指導で教師が目指すべき崇高な目標であろう。

そこまでくると、その行為が個人の揺るぎない習慣となり、学校のよき風土や伝統になっていく。

学校や教師ができることに目を向けるしかない。

彼の問題行動が世の中の風潮や、家庭のあり方・人間関係と無関係であることは全く考えられない。

しかし、子どもの問題行動をすべて社会や家庭の“せい”にすることはできない。

なぜならば、子どもたちは、平日の1日の生活時間の大半を学校で過ごしている。

その時間が、平穏で楽しく満足できる時間なのか、不満足でストレスのたまる時間なのかによって、彼に与える影響が大きく違ってくるからである。

自分たちの意思で変えられる視点、自分たちが責任をもたなければならない視点からのアプローチを試行錯誤し徹底してやり続けるしかない!

そんな中で、私たち教師ができることはどんなことであろうか、自分でコントロールできることはどんなことであろうか。

マスコミをはじめとする世の中の風潮を止めることはできない、家庭の環境や親の養育態度を変えることも容易ではない。

親は教師からの上から目線での指導では変わらず、むしろ反発を強める。

親からもっと協力してもらえるような努力は必要だが、それがかなわないからといって、親への批判を強めたり、愚痴を言ったところで何の解決にもならない。

かえって解決が遠のくばかりである。

ならば、私たち教師のできることは、学校や学校教育に関することだけなのである。

さりとて、学校の制度やしくみは変えられない。

変えようと思って変えられるのは、教師の指導のあり方や彼を取り巻く人間関係ぐらいである。

私たちは、自分たちの意思で変えられる視点、あるいは自分たちが責任をもたなければならない視点からのアプローチを試行錯誤しながらも、徹底してやり続けるしかないのである。

「切り捨て」や「あきらめ」などは、学校や私たち教師の選択肢の中にあってはならない。

たとえどんな問題であろうと、どんな子どもであろうと、「先生は君の味方だ、敵ではない」、「一緒に解決に向けてがんばろう」ということを心からわかってもらえたならば、改善に向かって動き出すことは間違いない。

その結果、「先生は自分を見捨ててはいない」、「信頼できる」となってきたら次の段階に進めばよい。世の中や家庭をいくら“くどいても”何も変わらない。

「排除の論理」で子どもが立ち直ったという話は聞いたことがない。

どんな子でも、心から「大切だ、かけがえがない」と思っていれば、それがたとえどんな指導の方法であろうと、それは大した問題ではなく、その教師の心が子どもに響き、子どもが変わっていく。

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