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「互恵的な学び合い」は「寄り添い合い」から
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COTECHI
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こんにちは、COTECHI です!

以前、子供たちの関わり合いについて、『教え合い』ではなく、『学び合い』が好ましいのだと、その違いについて、教えていただきましたが、そのことをもっと考えたいのですが。

P-MASTER
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うん。

はっきりしていることは、先に理解できた子供が、まだ、理解に至っていない子供に対して、一方的に教えるという行為では、子供同士の「互恵的な人間関係」は、生まれにくく、そうした関係に留まっていると、正しい人間関係づくりになりにくく、「真の学び」とは言えないということですよ。

人と人との関わりに、友だち同士であっても、「互恵的な関係」がなくてはならないということを考えてみましょうか。

「互恵的な学び」は、「寄り添い合う」ことから

他者と豊かに関わりながら豊かに学び育っていってほしいという願い

私は、よい子供たちの相互の学びの関係は、先に、学習課題の解決方法が理解できた子供が、まだ、そこにいたっていない子供に、相手を思考を考慮しないで自分の側の都合だけにで教えるという行為では、そこには、子供たち相互の真の「好ましい互恵的な関係」は、生まれないということなのです。

その子供の行為、行動が、どれだけ善意に満ちた、誠実なものであったとしても、そこで生まれるのは、「友だちにやさしくしたという満足感のようなもの」でしかないと考えている訳です。

何かに気づく、真に学ぶ・・ということには、おそらく至っていないでしょう。

もちろん、「教えるという」行動、その行為が全面的によくないと言っているのではありません。

どちらかでなくてはならないという考え方をしているわけではなく、できれば、子供たち同士が、互恵的に学び合えるようにしたいと願っているのです。

人と人との関わりには、互恵的な感情、互恵的なつながりのようなものがなくては、よい人間関係が生まれてこないと、私は、思うからです。

人それぞれの違いや能力を超えてどの人も他者とつながることで豊かになれる

人は、それぞれの個のさまざまな違いや能力を超えて、どの人も、さまざまな他者と、尊重する立場で関わることで豊かになれる、そういう関係になるために、「互恵的でなければ実現できない」と考えているからです。

私たちは、ただ単に、子供たち同士が関わり合いをもって、よい授業をするためだけに『学び合い』を学習に位置付けているわけではありません。

未来に生きる子供一人ひとりが、これから先、生きて行くことになる世界において、多様な他の人と豊かに関わりながら、生活し、学んでいって欲しいと願うからです。

そこには、子供たちが生活する中で、学習をするの中において、「互恵的な人間関係」がなくてはならないと考えるからです。

だから、子供が他の子供に教えることを否定するものでありませんが、教えている側の子供にとっても、学び合っていける子供にしなければならない、そういう視点を常に持って、『学び合い』を仕組んでいかなければならないと考えるのです。

理解の途中にある子供が「尋ねる」ことから始まる

教室でよく行われるペア学習やグループ学習の中での対話の始まりは、常に、「尋ねる」ことにするよう子供に言い続けることが大切です。

まだ理解に至らない子供が、「私、ここがわからない!」とか「ねえ、ここ、どうやるの?」と尋ねることができる学習です。

もうできている子供がまだ分からない子供「どこで困っているの?」、「どう考えて、どこで分からなくなったの?」と尋ねることができる学習です。

私は、そのどちらでもよいと思うのですが、どちらにしても、相互に「尋ねる」あうことができる、ということから対話が始まることが美しいと考えています。

子供の「分からなさ」を尊重する毎日

当然のことですが、「分からないということは、全く恥ずかしいことではない」という考え方を子供たちに伝えなければ、何事もスタートしません。

それには、教師自身がそう思い、信念をもって、子供の「分からなさ」を大事することを貫き通す毎日にしなければなりません。

子供も教師も「相手に合わせる」心を持つ毎日

子供も教師も、他者と関わる時に、なくてはならない心の持ち方、在り様に「相手に合わせる」ということがあります。

もちろん、いつもかもそうしなければならないというわけではありません。

他者との関わりにおいて、「そういう状況もつくれる心の持ち方」をしている、持ち合わせているということがとても大切なことだと思うのです。

ロブ・ルイスの絵本に『と・も・だ・ち』という作品があります。

自分の周りのどの子も好きになれないと思っていた主人公が、それぞれの子供のしていることをともに一緒にすることで、その主人公も、みんなと遊べるようになり、また、みんなも遊びに来てくれるようになるという物語です。

そこには、「つながりには相手に合わせること」が欠かせないというメッセージが込められているのだと思います。

それは、教室の中での『学び合い』においても、大切にしている「聴く」ということと相通じることではないでしょうか。

友達などの他者の言葉に耳を十分に傾け、耳を澄まし、その他者の行動を尊重して、その心を見つめ、自分の心を砕く、そして、一緒にその世界を共にする、そういう行為を通して人は、自分と他者とつながれるのだと考えています。

他者と共に考える

絵本『と・も・だ・ち』で、主人公がそれぞれの子供のすることに合わせて、一緒になって遊ぶという場面があります。

それは、ペアやグループの学びで言えば、他者と「共に考える」という行為ではないかと思います。

できる子供が、できていない子供に、一方向に教えるということではなくて、分からないでいる子供によく寄り添って、その分からないでいる子供の思考の道筋で「共に考える」ということです。

私は、そうしない限り、そういう過程を踏まない限り、分かっていると思っていた子供にも、よい学びが生まれてくることは期待できず、さらには、「互恵性」は生まれてはこないと考えています。

人は、他者とともに、同じ道筋や同じ気持ち、同じベクトルをもって歩むことで、それまでの自分にはなかった世界が見えてくるのです。

また、自分自身が無意識にしていた考え方や行動、指向性などの、自分が考えた理由や過程などの意味を知ることになるのです。

このように考えると、分かること(問題が解けること)は優秀なこと、分からないこと(問題が解けないこと)は、恥ずかしいことという考え方に浸ってきた子供が、何もしないで「教え合い」が『学び合い』に変えられるわけがないことに気づきます。

難しいのは、そのような考え方を、どのようにして子供たちに伝え、子供たちが本気でそう思うようにしていけるかということです。

それには、このように教えれば、このようになるという方法、指導法を私は示すことはできません。

それは、単なる教授法の問題ではないと思うからです。

この考え方を、本気でそうだと思われたら、そうでなければいけないと思われたら、その実現に向けて本気で子供にぶつかっていっていくことだと思いますし、そうした教師の生き方の姿勢が、空間と時間を共にする子供たちの姿勢に乗り移っていくからです。

その熱い思いの中から、その人ならではの指導法ややり方が生まれてきます。

それは、だれかのやり方の真似では決して生まれない、憧れとインパクトで子供たちを心の底から動かすでしょう。

ただ、子供たちにどう実行させるかの前に、教師自身こそが、学ぶことは、「分からなさこそが宝物だ!」との信念を持ち、分からなさに耳を澄まし、子供の分からなさに寄り添って考えるようにしなければいけません。

そうしようとする教師の覚悟が『学び合い』への道を開くのだと思うのです。

   友達って自分にとって都合の良い人と思っている限りは友達になれなくて、自分の心をオープンにして歩み寄れた時に友達になれる、そんな大切なことを暖かな絵で、強く響いてくる本です。

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