『学び合い』は「教え合い」だと思い込む指導者の考え違い

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『学び合い』は互いの「分からない」を学び合おうとする行為が軸

COTECHI
COTECHI

こんにちは、COTECHI です。

『学び合い』は、子供が関わり合うことに、真の学びがあるとして、大切にしますが、具体的にどういうことなのですか?

P-MASTER
P-MASTER

『学び合い』は、子供同士が関わり合うことを目指しますが、それは、子供相互に関わりが生まれれば、それだけでよいということではありませんよ。

大切なのは、その子供同士の関わりが、真の『学び合い』になっているかどうかということなのです。

教師は、そこを見取っていかないと、ペア学習やグループ学習が、単に、雑談の場になりかねません。

ですから、子供同士の活発な関わり合いの姿が生まれると、私の関心は、その子供同士の関わりの内容に向くことになるのです。

HARO
HARO

グループでの子供たちの様子を見ていて、それは、初めはこうなってしまうな、でもここからどう関わり合いの中身を充実させていくか、それが『学び合い』へ導く鍵になるんだよね。

そういう意味では、これ( グループ学習が雑談の場になってしまうこと)は、先生たち、だれもが通る関所のようなものなのだと感じたことがあります。

P-MASTER
P-MASTER

それは、子供たちの関わりが、真の『学び合い』として関わっているではなく、「教え合い」という行為になっているのみ・・・ということですね。

「教え合い」と『学び合い』の違い

 「教え合い」と『学び合い』の考え方、表出される子供の姿の違いについては、『「学び合う学び」が生まれるとき』(世織書房)によると、要するに、よく分かっている子供がそうでない子供に教えるのが「教え合い」であることであり。

その反対に、分からない子供が、援助を求めて、それに他の子供が応じるのが『学び合い』だと、考えたいのです。

「教え合い」は、理解できている子供が、まだそこに至っていない子供に、一方向に教えることが軸となっているのですが、『学び合い』は、「分からないことを互いに学ぼうとする行為」が軸になっているのだと考えたいわけです。

つまり、理解できている児童にとっても、理解できていない児童がどういうところでつまずいて、理解に至らないかを、その児童から学びを得ている状態が好ましいのです。

「学び合う学び」では、「教え合い」ではなく、『学び合い』が好ましいと思うのです。

『学び合い』において大切にすべき「互恵的関係」

学級の子供たちは、とても積極的に子供同士が関わり合っているように見える学級がありましたます。

けれども、すでに問題が解け、課題の結果を自分のものとできている子供が、課題解決の方法や課題解決の見通しを持てていないで、困っている子供に、単にその解き方を教えてあげるといった状態に陥っている様子をよく目にします。

できている子供が、できていない子供の面倒を見ている・・・という状態です。

それはそれで、自分は、分かったのだから友だちであるAさんも、Bくんにも分かるようにしなければ・・・という意欲の表れで、その子供たちの意欲を否定してはいけませんし、その行為自体は、間違っているとは思いません。

しかし、これは、「教え合い」です。

これでは、私が重要だと言っている『学び合い』において、大切な「互恵的関係」は生まれてはきません。

互いに関わり合ってよかったと思える関係づくり

それは、『学び合い』において、関わり合ってよかったと思う時には、必ず、互いにそうしてよかった、関わり合って心地よかった、と思える事実・感情が生まれることです。

そうした感情がなくて、学習課題が解決できて、理解できている子供から、まだ理解に及んでいない子供に、一方向に「教える」「教えてあげる」という行為では、双方に、「真の学び」が生まれないのではないかと考えるわけです。

ですから、私は、それでは、よしとするわけにはいかないのです。

つまり、『学び合い』における友達関係、人間関係の肝は、その課題は、「教え合いから学び合いへ」というペア、グループの学びへの転換だと思うのです。

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